窪田般彌先生のこと〜   by 奈良ゆみ

  もう10年以上も前のこと、日本で演奏活動を始めた頃、確かサントリー小ホールでのリサイタル《サティ&ワイル》の後、楽屋に窪田先生御夫妻がお見えになった。ダンディな窪田先生と木蓮の花のような奥様に初めてお目にかかった。以前から、窪田般彌という名は、書店や、ユリイカなどの雑誌、それから私のサティの歌詞の訳者として、よく存じ上げていた。そしてこの名前の字の印象からだけでも、なにかとても格調の高い、近づきがたいけれど、魅かれるペルソナージュとして、心の中に存在していた。そういう方に聴いて頂けて、少々はずかしく、でもうれしかった。それ以来、東京でのコンサートには、必ずといってよいほど、お越し下さったが、恐れ多い気がして、時々お手紙を差し上げるぐらいで、お電話でお話するなど望外のこと、そんなふうにして、数年経ったある時、ご夫妻でパリに来られるというお知らせを受けた。パリでは、一緒にお食事したり、お散歩したり、丁度、私はポンピドーセンターで、モーリス・オハナのひとりオペラ“三つの御花(オハナ)の物語り”を上演している時で、お揃いでいらして下さった。何と楽しい方!ユーモアーに溢れて、あっけらかんと、世の中の批判も気持ちよい、見知らぬ遠い国まで連れていってくださる。笑い声のなんと澄んで快いこと。その折りに、窪田先生の詩に奥様が画をかかれた樹木頌と題された詩画集を頂いてとても感動した。以来、今まで勝手に抱いていた窪田般彌への近づきがたいイメージはすっかり払い落とされ、私は、帰国する度に、般彌先生とたみ子奥様にお電話を差し上げるようになった。よく、ふぐ料理屋さんに連れていってくださった。「ふぐは魚でポワソン、でも毒があるからポワゾンですね。」と私が云うと、笑い転げて、そのジョークがとても気にいられて、「ポワゾンのポワソンだよ!」と何度もくり返された。木霊のような笑い声、、。いろんなことを、先生は殆どひとりでお喋りになる。時々奥様が話し始められると、「だまっていらっしゃい!」とおっしゃり、奥様は、優しい微笑みを返される。

  ドビュッシー歌曲のCDが出る時、日本にも輸出したい、出来れば、歌詞の日本語訳も載せたい、というレコード会社の意向で、般彌先生に、すでに東芝から出ている“ドビュッシー歌曲集”の訳詞を私のCDにも載せさせて頂けないでしょうか、と恐る恐るお願いしたら、「ああ、どうぞ、使って下さると嬉しいですよ!」と即、明るい声のお返事を頂いた。その後、フォーレ歌曲集も出ることになり、先生のお訳があれば、、、とまたお願いしたところ、「今までに訳したものをお送りしましょう」と、すでに本や雑誌に載せられたものを幾つもお送りくださった。ところがその中には、私が録音した中の11曲の詩は入っていなかった。また般彌先生に、申し訳ない気持ちでお伝えすると、「あ、そう、じゃ、ボク訳してみるよ、しばらく待っていてね」。と明るい声が響く。

  その電話から、8日目、大きな茶色の封筒がパリに届いた。ボードレールの「秋の歌」をはじめ、11篇の詩、全てが原稿用紙に青いインクの万年筆で書かれていた。ところどころ線を引いて消してあり、その横に訂正が入っている。なんと暖かくく息づいている言葉、、、文字が様々な色や香りを放ちながら、空間に拡がった。

  すぐにお電話でお礼を申し上げると、「よかったよ、気に入って下さって、また、ついでの時にでもコピーをとって、ボクに頂戴ね」。「え?オリジナルをそのままお送り下さったのですか?」「そうだよ」、ああ、なんと大らかな詩人の魂!

  「般彌先生、こんなに早く訳して下さって、どのようにお礼をさせていただければよいのでしょう」。「お礼?いらないよ、ボクの訳、ゆみさんのCDに載せていただければ、光栄だよ、あ、そうだ、ボクはあのあやしげなパリのカフェを飲みながら、ゴロワーズかジタンをくゆらせてみたいんだ、フィルターなしのでね」。それから、帰国の度に私は、少し心に咎めながら、カフェと“煙り”をお持ちした。

  いつも明るい澄んだ声、般彌先生のあの声は独特に明るく響く声。ある時、電話の向こうの般彌先生の声は弱々しくかすれていた。「今回は残念だけれどお会いできないよ。この次、またポワゾン食べに行こうね」それから数カ月経った2002年の12月中旬、先生に頂いた「老梅に寄せて」と「一切合才みな煙り」を抱いて先生をお訪ねした。もう、誰にもお会いにならないという。でも岡田袈裟男さんが「ゆみさんには会いたい」とおっしゃった、と聞いて、すぐに、岡田さんと一緒にお訪ねした。般彌先生の目は水のように美しく、透き通って鋭く、遥か彼方を見つめていらした。肉体に宿る魂を詩(創造)によって、遠くに、飛翔させてこられた般彌先生は、目の前で、今や白い樹のように、何万年も昔を眺めて懐かしんでおられるよう。この世を離れてゆく人には、私達には見えないものがきっと見える。母が亡くなる前、同じ眼差しを彼女に見た。「般彌先生、ここにサインして下さい」。頂いた詩集を差し出した。「イヤだよ、今は。元気になってからね」。私は悪いことを申し上げてしまった、と思った。しばらく経って、もうおいとましようとしたら、「サインするよ、もう会えないといけないからね」。そのあと、般彌先生はもっと遠いところを見つめられた。



昨年の6月に藤富保男先生が、パリで詩のパフォーマンスをされた。カフェでお会いしてお話ししていると、般彌先生とはとてもお親しかったとのこと。私は、ずっと般彌先生へのオマージュに何か出来ないものだろうか、とひそかに考えていたが、お話しをすると保男先生と意気投合した。そうだ!いつだったか、般彌先生から岡田袈裟男さんを紹介されて、「岡田さんは、とてもいいコンサート作りをするので、ゆみさん、また機会があったら是非何かやってみて」。岡田さんからも、ゆみさんのレパートリーはきっと般彌先生喜ばれるよ、と言われていたことも思い出した。それで、藤富先生とも相談して、窪田般彌先生へのオマージュのコンサートを催すことに決めた。

第1部は、ヴェルレーヌとボードレールの詩と音楽。全て般彌先生が訳された歌曲、この詩と音楽のマリアージュで、般彌先生の魂が自由に、虹色に、反射することが出来たら、、、。第2部は、窪田般彌先生が、「あっはっは!」、とあの懐かしい明るい声で、笑ってくださるような、同時に、私達に“詩人の魂”の躍動が感じられるような、そんなコンサートになれば、と考えている。それから、「私は、般彌と一緒に暮らせて、ほんとうに幸せでした」。とおっしゃる、たみ子夫人への“愛”の讃歌になれば、とも…